東日本大震災−野田村復興(3)

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内容更新日:2012.03.23.
レイアウト更新日:2024.10.08.

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東日本大震災−野田村復興(2)


 2012年1月15日 野田・市日

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 去年開店していた仮設店舗。日中野田村に来ることがあまりなく、なかなか写真を撮れなかった。

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 市日の賑わい(と言っても普段の3分の1なのだが)。野田村の守り神である愛宕山神社の参道で毎月16日に行なわれる野田の市。正月(1月)と盆(8月)は本来は休みだが、近年は1月は15日頃、8月は盆前の12日頃にも市を立てている。津波の時は鳥居の向こう側にあった商店街がほとんど流され、鳥居に屋根が引っかかって瓦礫の流入を防いだものの水は鳥居のこちら側数百mまで入った。写真に写っている範囲は、2〜2.5mの海水を被った場所。鳥居の向こうに仮設店舗が見える。

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 景気付けの、餅撒きならぬミカン撒き。オレンジ色の大黒様達の頭上をオレンジ色のミカンが舞う。

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 愛宕山から見た参道と野田村商店街(跡)。

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 この日は寒かった。参道脇の小川が凍るのは、近年珍しい。
 野田の市は、震災後2、3ヶ月後には再開している。私は野田村とは古くから縁があって、今は村外に住んでいるが野田市日の会に所属しており、去年の夏に再開を知って早くに出店したかったのであるが、用事が重なってとうとう去年は一度も出られなかった。年末の市日の会総会で「山の産物を何か出して市日を盛り上げてほしい」との要請を受けて、近くにある炭の組合に頼んで規格品切炭を委託販売することになり、この日久しぶりの出店。震災後はお客さんの多くが流されて近くに住んでいないので、客数が少なくいつも来ている八戸の魚屋さん等は来ていない。(2月から出店。)野田の市は本来、村外出店者は市日の会には所属せず出店時の歩合制、村内出店者は市日の会に所属して会費制。去年は客足が伸びるまでは会員だけで実施ということだったようだ。
 2012年2月22〜24日 岩泉〜石巻

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 田老町。

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 山田町。ポツンと営業を続ける姿に「頑張ってるなぁ」。

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 大槌小学校。

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 陸前高田市、気仙川沿いの気仙中学校。

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 本吉町。荒れた海から波しぶきが。

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 本吉町蔵内。地盤沈下で海水に浸かった岸壁。

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 南三陸町、国道45号線から398号線に入った所。南三陸町は街のほとんどが流され、大きな被害を受けた。今は瓦礫は片付いたものの誰も住むことができず、コンクリートの土台だけが虚しく広がっていた。着いた時は既に日は暮れ、その様子は写真に撮れなかったが、暗くなると本当に真っ暗になってしまう。人が生活をしている場所とは、いくらかでも明るい。車で走っていても、道路は見えている。ところが今のこの街は、道路が暗くて見えないのである。車のライトは、道路の真ん中しか照らさない。だから、カーブになると先が全く見えない。普通なら街灯なり家の明かりで気付かないうちに見えている物が全く見えないのである。生活が失われるということはこういう事なのか…。写真は、その暗闇を写してみた。道路の縁石がかすかに見えている。なお、国道の分岐点の表示看板も流されて無く、目印になりそうな建物も無くただコンクリ土台ヶ原の中を土埃のアスファルト道が通る状態なため、地図を見ながらカンで走った。ちなみに私はナビは使わない。特に初めての道路をナビで走ると道を覚えられないし、カンというのは常々鍛えていないと衰えるものだから。

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 北上川(追波川)河口から4kmほど上流。この川沿いは12kmまで津波が溯ったと言う。国道398号線沿いにあった建物。

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 北上川(追波川)河口から5kmほど上流。川の水位から5mくらいはありそうな堤防の上を通る国道398号線も、ガードレールもほとんど流されたまま丸坊主状態。舗装も修復であちこち凸凹、土の堤防も広範囲に新たに盛られているのがわかる。写真左側は主に田圃だったようだが、川に沿って相当な量の海水が入ったのが見て取れる。

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 中学校の校舎。この地区の平野部の一番奥にあるのだが、浜からあまり距離がない。この辺は、みな3階まで水が上がっている。

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 女川町。平野部の建物は一つも残っていない。見えてる範囲にはびっしり家が建っていたはずだ。

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 残された信号機。女川町。消えた信号は、震災直後を思い出す。

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 女川漁港。どう見ても横倒し。

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 石巻市門脇地区。昔、高校生の頃、文通相手が確かこの辺に住んでいたと思った。それもあって、今回ここを尋ねるのが目的で来てみたのだが…。

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 上の写真の奥に写っていた建物。学校か?
 関東方面に、用事ができた。幸い、高速道路が東北区間は3月いっぱい無料である。経費節約のため、車内泊の準備をして車で行くことにした。被害は南に行くほどひどいとも聞いている。将来、現地の人達と関係ができるかもしれない。その時に失礼のないよう、実状をこの目で見ておきたい。去年、部落の老人クラブの慰安旅行のコース設定を手伝った関係で旅行に同行、岩泉小本〜宮古市北側まで見て回った田老町の惨状は見ていたが、それ以南はまだ一度も目にしていなかった。また出発直前に、書店で売られていた各市町村の津波の様子を映したDVDを購入して、南三陸町の映像を見て絶句。目の前で帰るべき家を流されていく人々の心情を想う。
 宮古はソフトバレー大会参加で何度か行っているが、国道沿いは鉄筋ビルが多いので建物はわりと残っているように見えた。釜石も同様で、小さい町村ほど住宅が多いために家ごと流される被害が多くなったのではないだろうか。田老、山田、大槌などは、住宅街がすっかりなくなっている。しかし、大船渡、陸前高田、気仙沼などは鉄筋ビルの形はあっても軒並み3階まで津波に浸かっており、女川町では鉄筋ビルまでもが横倒しになっていた。
 南三陸町は到着が夜になってしまい、ほとんど見ることはできなかった。ただ、電気が全く通っておらず「明かり」がないことから、人の生活の気配が感じられなかった。街灯もなく、道路看板もなく、乏しい車のライトだけではアスファルトの道路を追うのがやっと。ようやく国道沿いに暗闇の駐車場を見つけて、見えないけれども少し高台のようだと不安を抱きながらそこで一泊。朝になって見回すとそこは景勝地の駐車場で、街灯も2、3本立っていた。つまり、電気が来ていないのである。
 最後に通った石巻。昔、高校生の頃、文通をしていた人がいて一度訪れたことがある。住所は忘れてしまったが、最近門脇地区被災の報道を聞いて「門脇」確かそんな地名だったと気になって、今回是非通りたかったのだ。びっしり家が建っていたであろう住宅街は、すっかり無くなっていた。まあ、あれから○十年経っているからあの時ここに住んでいたとは限らないだろうし、生きていてくれることを祈りながらしばらくそのあたりを走り回った。ところどころに家が残っている。よく残ったものだと近づいてみると、居間の大ガラスは割れて家の横っ腹に大穴があいている。その中に1軒だけ、車が止まっていて住んでいるらしい家が、土台の原っぱのまん中に「負けるもんか」とばかりに建っていた。
 そろそろ出発しようと住宅街から工場地帯を通るバイパスに出ようとしたら、太い道路が数十m離れて平行に走っている。少し不思議に思ったが、住宅地だから道路が並行して走ることもあろうと深く考えずに、すいていたせいもあって1本目の道路を右折した。でも、やけにすいてるなぁと思いつつしばらく走っていたら、ずうっと向こうの信号が青になって、2車線の道路を車が2列になってやって来るではないか。正面の列の車が、ライトをパカパカパカ!何と、一方通行を逆走していたのだ。慌てて横道に飛び込んで事無きを得たが、幹線道路の看板もろくに復旧していない状態の中で、住宅地から出る細い道に道路標識などあろうはずがない。「そんなこと、わかんね〜よ〜」!!!

 はっきり言って、復興は「見えない」。
 どこもかしこもようやく瓦礫が片付いた程度で、あるのはコンクリの土台の原。
 とにかく「人の住む気配」がない。
 ぽつんと残された信号機は消えたまま、国道の道路標識もいっさい無し、夜になれば真っ暗。
 人が住んでいないとはこういう事なのか。
 政府はいったい何をやっているのだと言いたくなってしまう。

 帰ってきてからたまたま大戦の記録DVDを見ているんだけど、
 圧倒的戦力でグアムの日本軍を攻撃したアメリカ、占領の翌日には機械力を駆使した大復旧工事を始めて
 住居バラックも次々と建てられて行った。

 確かに損害の規模も違うけど、広々としたコンクリ土台ヶ原を2、3台のユンボが動いている程度ではあまりにも寂しい。
 日本は今も昔も政府の無力のツケを国民が払う国だと言われるけれど、
 政府に力がないのか、それとも、未だに日本は「国力の乏しい」国だという事なのか。
 橋や道路が作られても、人々がそこに「生活」できなければ町の復興はない。
 もっと政府は金を出してでも全国から土建会社を派遣させて、
 防波堤はなくなっちまったから津波からの避難の手段をしっかり作った上で従業員の生活するバラックを建てて、
 そうすれば生活物資の店もできるだろうし地元の失職者を雇えば住民も戻って来れるのではないか。
 何か、政府の無力のせいで住民がバラバラになって行っているように見えてならない。

 日本人の庶民の「絆」や「頑張り」が世界から評価されている、その事に甘んじてはならない。
 それは、日本政府の即応力の無さへの批判の裏返しではないのか。
 2012年3月8日

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 真新しい砂利の上に敷かれた線路。

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 線路の上から、失われた堤防の向こうに復興中の野田港を見る。

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 国道45号線も、ガードレールが新しく付けられた。

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 日中野田に用があったので、行ったついでに三陸鉄道の復旧の様子を写してきた。線路を敷いたのは知っていたが、野田へ行くのはいつも夕方以降で暗くて写真を撮れなかったのだ。
 2012年3月21日

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 真新しい床。館内も以前より明るくなった野田村営体育館。
 海水に浸かり、その後は支援物資置き場に使われてきた村営体育館。1年を前に突貫工事で床の張り替え、3月11日はここで合同慰霊祭が行なわれた。震災後は村内の体育施設は全て避難所などに使われたため村民の運動不足が心配されてきたが、慰霊祭後その問題を解消すべく、当面の期間無料開放される。来週は村内テニポン大会が開催される予定だ。”わさらび”の練習場もこちらに戻ったが、その初日、練習開始の1時間前、三陸沖の地震で津波注意報が発令になり、100人以上の村民が避難。3.11では瓦礫を食い止めた体育館は今や津波の”最前線”に位置するため、当然練習は中止。この日が復旧体育館練習再開”初日”となった。(広角レンズ使用のため、画面が少し歪んでいる。)