東峰小学校校歌
東峰(とうほう)小学校校歌
1.梵珠(ぼんじゅ)の森の頂(いただき)に
鳥がさえずる朝ぼらけ
古(いにしえ)よりの父の山
皆(みんな)を見守る母の峰
いざや 励まん 我等と共に
遥かな歴史を繋(つな)ぐ東峰小学校
三千坊(さんぜんぼう)の青い森
真赤に燃える日が昇る
恵みの大地と父の空
命を育む母の川
いざや 励まん 我等と共に
未来へ歩む学び舎 東峰小学校
作詞 葛西青龍
津軽に生きる者として西の岩木山は御山(おやま)信仰や農作業の時期を知らせる大切な象徴の山であります。
その西の岩木山に対し「東の岳」こそ中山連邦の「梵珠山(ぼんじゅさん)」であります。学区民・PTAの方々が「東の峰=東峰小学校」と命名された事に感慨深さを感じます。
古来より梵珠山は岩木山に勝るとも劣らない信仰の山であります。昨今、七和地区から梵珠山へ向かう古代遺跡・史跡を線で繋ぐと北斗七星の形になることが発見され只今調査中です。梵珠山は失われた歴史・知られざる歴史、古代・中世期のロマンの宝庫でもあります。
*津軽(つがる)三千坊(さんぜんぼう)*
三千坊(さんせんぼう)については「猿賀山(さるがやま)延命院(えんめいいん)神宮寺(じんぐうじ)縁起~津軽安東氏を駆逐(くちく)した南部氏入部後の室町時代1333年の初期から中期に編纂(へんさん)…?」「朝日山(あさひやま)常福寺(じょうふくじ)縁起~江戸時代1603年の初期から中期に編纂…?」等に記載されていますが此度は「東日流(つがる)物語(ものがたり)~編纂期不明」に記載されている「此山(このやま)ニ阿砂利(あじゃり)先達(せんだつ)ノ坊ノ寺アリトセ。高野(こうや)ニ大先達(せんだつ)一人、十三湊(とさみなと)ニ大先達一人、都合先達ノ坊三人アリ。…尾崎坊(おざきぼう)(十三湊)、南蔵坊(なんそうぼう)(阿闍羅)、日垂坊(にっすいぼう)(梵珠)也。」を引用。
津軽が文献(日本書紀~AD720年養老4年完成か?)に初めて登場するのは斉明天皇(658年~660年)の時期に、阿倍比羅夫(あべのひらふ)(現山形県一部・新潟・富山・福井県、旧称越後(えちご)・越中(えっちゅう)・越前(えちぜん)を総体とする「越(こしの)国(こく)」の国主)の水軍が大和朝廷(やまとちょうてい)との盟約(めいやく)により「討夷(とうい)」の名目で津軽に上陸し郡領(ぐんりょう)を設置したとあります。が、蝦夷(えみし)(津軽の先住民勢力)とは戦いをせず有間浜(ありまはま)(十三湊付近か?)で交流・交易をしたと記されています。
今年は津軽が生んだ名作家「太宰氏」の生誕100周年であります。
その「太宰氏」の書の中で「古代より津軽の民は戦いに強く、負ける事を知らなかった…大和朝廷は《服従(ふくじゅう)》という事を知らない津軽の民を平定する事を諦めた…」と云うくだりがあります。
当時、全国統一を目指す朝廷側からみれば此処津軽は化外(けがい)の地・鬼門(きもん)の地であったのでしょう。(京より北東の最果ての地、つまり方位的に「丑寅(うしとら)」~牛の角・虎の縞(しま)模様(もよう)の衣・金棒(かなぼう)。まさに「鬼(おに)」「丑寅(うしとら)金(こん)神(じん)」の住む地「鬼門(きもん)」でありましょう。)
神山(かみやま)地区で鳥居に「鬼(おに)」が奉られている神社があります。(津軽地域の神社1034社中、38ヶ所の神社の鳥居に「鬼~大人(おおひと)神(かみ)」が奉られています。)数ある縁起の一つを要約すれば「この神は友にあれば心強き事この上なく、敵になれば絶対に敵わざる神なれば敬い・畏れるもの也」と、なります。
「日本は世界の文化・人種の吹き溜まり」と著名な文化人の方が述べております。そして、ある方は「津軽は日本の文化の吹き溜まり」と述べております。と云う事は世界を知る事は津軽を知る事であり、津軽を知る事は世界を知る事だと思います。
津軽の古代・中世は未だ、その全容が解明されておりませんが此の地「津軽」に関わってきた人達の過去により現在の私達が成り立っていると云う事を、未来へと歩む子供達に伝えて行く事が此の地「津軽」で暮らす私達「大人」の「使命」ではないでしょうか。
龍二ことペンネーム 葛西 青龍