津軽三味線とジョンガラとボサマ
京都鞍馬山寺大蔵院に所属する各個の寺院を持つことのない下部の僧を願人坊、又は願人和尚とよんだ(鞍馬寺史によれば、「願人は勧進からきた」とあり、その歴史は平安~鎌倉時代まで遡ると有ります)。
彼等は、全国に展開し、布教活動を生業としていた。
記録によれば天保年間(1830~1843年)あたりから布教活動だけでは生活できなくなってきた彼等は、庚申(こうしん)の代待ちや、唄浄瑠璃や踊り・太鼓・三味線にて、門付けを行い日銭を稼ぎながら暮らす様になったとあります。(山伏達も彼等に習いその方法を取り入れ説法した)
時代が進み、堅苦しい説法だけでは大衆に受け入れられない為、人情沙汰や恋物語、時には「お上」を皮肉る時代風刺を「口説き節」として唄い・踊り歩く様になり、それは大衆に大きく受け入られていったのでしょう。
しかし、その時代、国内では凶作が続き(天保の凶作)大衆は疲弊しており幕府への不満がつのり一揆が各地で勃発し始めた時代でした。又、日本近郊の現中国ではアヘン戦争が勃発し、その余波が日本にくるのではと云う危機感が幕府を悩ませていました。
そんな国内を引き締めるため、時の老中「水野忠邦」は「願人取締令」なるものを発令し、彼等を当時江戸郊外であった浅草に集め、その活動を制約しました(天保改革1843年、津軽弁の「テンポ…無理・常識外れetc」の意味は此の頃に出来た津軽弁と考えられる)。
当時浅草には「非人頭:車善七」なる者が「乞(ごう)胸(むね)」と云われる集団を仕切っておりましたが、その中には歌舞伎役者達もはいっていたと記録されております。
その時代の身分制度として「士農工商」があります、これらは納税義務(役務・奉公)を持つ者でありますが、納税義務を持たない者は「非人(ひにん)・エタ」と云われた。
願人はそれらにも属さない「無宿人」と云われ(実際には非人の身分であったと云われる)人々には「すたすた・チョボクレ・チョンガレ坊主」等と呼ばれ蔑まされたとあります。
さて、1853年、当時の日本を揺るがす大事件が起こった。
アメリカ合衆国のペリー総督率いる「黒船」強襲来航である。この時代よりを所謂「幕末」とよびそれは1868年の明治維新まで、混沌たる激動の時が流れる事となったのである。
そんな中、江戸では体制が崩壊する程の大規模な一揆が起こりつつあった。それを先導しているのが「願人」とされ、彼等は江戸より強制追放の身となったのであった。
当初、願人和尚達の活動には寛容であった幕府であったが、国家を揺るがす危機的状況の中、彼等の活動は一切禁止となり彼等の姿は江戸より完全に消えてしまったのであった。
又、全国に展開していた彼等の活動も時を同じくして完全消滅していったのです。江戸で所払を受けた「願人」達を受けいれる地方の領主は誰一人いなかったのでしょう。
しかし彼等は生きていたのでした。
全国を追われた彼等一部は本山京都へ、関東より北は本州最果ての地「津軽」へと逃げ延びてきたのでしょう。
又、その中には「尼(あま)比丘尼(びくに)」と云われる女の所謂「願人」もおり、彼女等の大半は日本海側へ逃れ、彼女等の口承芸は願人では無い者達、所謂「ゴゼ」達に受け継がれその一部は北上し津軽へ来たのでしょう。
当時津軽は中央より、ある意味「化外(けがい)の地」とよばれていました。
津軽弘前藩は1807年(弘前藩殉難事件)を前後して約15~20年もの間、幕府の命により現北海道斜里町へ当時近海を荒らしまくっていたロシア兵鎮圧の為出兵(出兵した兵士の殆どは戦いではなく、浮腫病により尊い命を無くし、帰って来た者にはその事実を堅く口止めされていた…詳しくは1952年上野の古本屋にて発見された津軽藩殉難事件簿参照)し、更に長期に亘る大凶作・増税に藩も民も疲弊し不満がつのっていたのでしたから、幕府より追われた彼等「願人」達を受け入れる事は僅かばかりの抵抗であったのでしょう。
「願人」達の口承文芸はその後、津軽の民により「津軽願人節・じょんがら口説き」の祖となり、大きな音にて演奏する三味線は「津軽三味線」の祖となり、それを引き継いだ津軽の門付け芸人は「坊様~ボサマ」と云われる所以となったのでしょう。
また、全国に残された彼等の活動は地域により「願人節」「チョンガレ」「ジャンガラ」等と云われる唄・踊りとして残されてきました。呼び名は同じでも、唄・踊りは各地まったく違うのは、画一的布教ではなく、その地を尊重し・愛し・重んじた「願人坊」達の心意気であると想います。これこそが「じょんがら」の魂でありましょう。
幕末の頃から「口説き節」を唄う者は願人坊のみにあらず、それを生業とする集団も出現してきました。明治維新後、彼等はそれを「浪曲」と云うジャンルに確立させ、それは関西と関東を拠点に多いに大衆に受け入れられ繁栄してきました。その時代、津軽の三味線奏者の名手は津軽民謡の伴奏だけでは食べていけないので、「浪曲」の伴奏者として中央都市部へと進出していきました。
現五所川原市梅田の鈴木豊五郎(1885年明治18年4月14日~1952年昭和27年1月30日享年68歳)こと「梅田豊月」氏もその一人であります(彼の孫弟子には「高橋竹山」氏がおりますが、竹山氏もまた「浪曲」に関わった一人でありましょう)。
この時代から「チョボクレ」「チョンガレ」~「ジョンガラ」になったと云う説もあります。
更に、浪曲界では当初「ジョンガラ」は「三味線じょんがら」等と云われ「じょんがら」の前に「津軽」が付く様になったのは「豊月氏」の時代からだと云う説もあります。
「ジョンガラ」は祖唄「願人口説き」の流れ、いわゆるその時代の大衆にいかに受け入れられるかが原点でありましょう。
ですから「ジョンガラ」にはその時代より現在に至るまで、大きく分けて旧節・中節・新節・新旧節等があります。常に大衆の欲する唄に敏感に反応し進化させてきた先人達に感動・感謝するものであります。
その流れから云えば、現在若者達による「津軽三味線?」活動も一理伺える様な気がしないでもありませんが…。
歴史的に僅か140有余年の歴史を持つ津軽民謡の津軽三味線。時代のニーズに応えて進化し現在ようやくそれが確立されてきた津軽民謡。
爺が想いまするに、現在、世間一般に云われる「津軽三味線」と「津軽民謡」の「津軽三味線」は名前は同じ「津軽三味線」でありますが、似て非なるものであると云う事でしょう。
いつの世でもそうですが、それを良しとするか、悪しとするかは、その時代の聴衆者が決める事なのだと想います。
これから先、新しい「じょんから」が、又生まれてきてもおかしくない。それが「津軽三味線」なのでしょう。
葛西青龍 著